まだ宵の口であって、両国元町の『春駒』も客が押しかける前の静寂の中に沈んでいた。この、ほんの三十分間が『春駒』の店の静けさを、しみじみと感じさせるときだったのだ。店の中は、昼間のように明るかった。店の奥には突き出し、各種の肴がいつでも需要に応じられるように取り揃えてある。酒の燗の準備もできているし、給仕女たちがタスキ姿も甲斐甲斐しく待機していた。それでいて、店には人影がない。そういう三十分間で、嵐の前の静けさに似ている。緊張感を伴いながらも、何となくのんびりとしているのである。(「 長屋の賭け」冒頭)。本